明治時代に日本へやってきたさくらんぼが、どのようにして山形の地に根付き、 「佐藤錦」として誕生していったのかを調べてみました。 「佐藤錦」誕生の裏には、生みの親「佐藤栄助氏」と育ての親「岡田東作氏」二人の物語がありました。歴史を紐ときながら、お二人のご苦労を振り返ってみようと思います。
佐藤錦 生みの親「佐藤栄助氏」 |
佐藤錦 育ての親「岡田東作氏」 |
● 佐藤栄助氏とさくらんぼの出会い
佐藤栄助氏は、1867年(慶応3年)7月15日、代々醤油醸造を生業とする裕福な商家に生まれました。
新しい物が好きで好奇心旺盛な性格から、株に手を出し、サッカリンへの投機に失敗し1908年(明治41年)全ての財産を失ってしまいます。1909年~1910年(明治42年~43年)にかけて、醤油醸造業を人手に渡して町中から、雑木林へと移り住み山木農場の開拓農民として、ここから波乱の人生を歩むことになります。
明治の終わり頃には、養蚕が盛んになりましたが、開墾した土地は複合扇状地で土壌が弱酸性で排水が良く、一帯の地下水も低く用水不足でした。その為、蚕のえさとなる桑の生育が悪い為、生産効率が上がらず3度の食事もままならず、出稼ぎに行かなければならないような時代でした。
ましてや果物は嗜好品で、庶民にとって身近なものではありませんでした。しかし、佐藤栄助氏は時代に逆行して、果樹栽培を始めました。りんごやももの他に、植え捨て同然だった様々な品種のさくらんぼを農家から譲り受け栽培しました。
奇跡的に、品種の違う複数のさくらんぼの花粉が互いに交配し、さくらんぼが実りました。そこで佐藤栄助氏は、前身が商人だったため、「これは、商売になる」と商勘を働かせ、さくらんぼの県外出荷を始めました。
畑から駅まではリアカーで運び、駅からは客車の小荷物として扱われ、東京まで3日かかって運搬しました。3日もかかれば、当然のごとく「実腐れ」等の品質不良のクレームの電報が相次ぎ、ここに佐藤栄助氏の夢は一度断たれてしまいます。
2010.5.8
(最終回まで毎週更新の予定です。お楽しみに。)